近年、日本での注目度も高まりつつあるサッカーのタイリーグ。今シーズンも40人近い日本人選手が同リーグでプレーしたが、とりわけ“日本流”を掲げて戦う注目のクラブがある。タイリーグを代表する名門の一つ、チョンブリーFCだ。
選手のみならずコーチ、スタッフらも多くを日本人で固めるという、世界でも他に例を見ない同クラブの挑戦に迫る――。連載第5回は、営業・広報の小倉敦生。
生活の中にサッカーがあった
「やっぱり、親父の影響は大きかったと思いますね。小さい頃から、生活のなかにサッカーがあったので。いつかはサッカーの裏方の仕事をやってみたいな、というのはあったんです」
チョンブリーFCの営業・広報を務める小倉敦生の父は日本サッカー協会会長、FIFA(国際サッカー連盟)理事などを歴任して今年、日本サッカー殿堂入りした小倉純二氏。
子どもの頃から、たとえば家のファックスにはワールドカップ招致活動の状況報告が送られてき、「ドーハの悲劇」のあとには家庭の空気がしばらくどんよりと重くなった。
幼い頃の記憶には、日本人プロ第一号としてドイツで活躍していた奥寺康彦氏の様子をうかがいに頻繁に海を渡る父の姿も残っている。まさに、日本サッカーの歴史そのものを身近に感じて育った。
タイでサッカーと関わることに
アメリカの大学を卒業後、タイの企業で勤務していた時に、知人を通じてチョンブリーFCが営業職を募集していることを知り、履歴書を送った。
面接を受けてから一年ほどが過ぎ、あきらめて日本で就職活動をしようと空港へ向かった時、運命的なタイミングで「採用」の連絡が届いた。2012年の初めのことだった。
就職に際しても、何かと日本とは勝手が違うタイという国。採用の連絡も予想外の形なら、初仕事も想定外の展開で唐突に始まった。
「いきなりマレーシアに行ってくれと言われ、行ってみたらACL(アジアチャンピオンズリーグ)関連のワークショップ。入って間もないなかで、チームマネージャーという肩書きでプレゼンをしました。とにかく、“むちゃぶり”が多いんです(笑)」
事務レベルでの“日本流”
小倉の仕事は、肩書きの「営業・広報」の枠に収まらない。クラブ間提携を結ぶヴィッセル神戸との窓口、チームの引率、時には選手の契約面にも関わるなど多岐に渡っている。
そんななかで、サッカーそのものとはまた違った事務レベルでの“日本流”の浸透を一歩ずつ試みてきた。
「初歩的なことですが、まずは職場にカレンダーを貼るところから始めました。各作業のボードも作ったりして、今週は何をやるのかという仕事の管理からです。自分の部署ではやっと、みんな運用してくれるようになりました」
現場の加藤光男コーチ、白木トレーナーらと協力し、練習の出欠も取り始めた。すると、タイサッカー界の問題点である練習の無断欠席や遅刻も徐々に減ってきたという。
海外で再認識した父の偉大さ
もともと父を尊敬していながらも「七光り」と言われるのが嫌で、父の息がかからない海外を選んだ面もあった。だがその結果、改めて父の偉大さを実感することにもなった。
「アジアのどこへ行っても親父の知り合いは多いですし、FIFAの人がタイへ来ても『小倉のジュニアか』というところで話ができたりもします。今は、すごく感謝してますね」
その父・純二氏は、選手としてのキャリアを持たずに日本サッカー殿堂入りするという異色の経歴の持ち主でもある。日本サッカーの歩みとともに育った息子も今、「チョンブリーFCの侍」として、父と同じく異色の形でサッカー界と関わりはじめた。
<最終回/櫛田一斗(選手)につづく>