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バンコク初出店!ツルハ・ホールディングス 鶴羽 樹社長 インタビュー

1,000号店が4月26日にオープンしました。

札幌市清田区の「里塚緑ヶ丘店」が1,000店目になりました。ロードサイド店ですね。5月に1,000店達成の感謝の会を開くのですが、ほんとうは感謝の会はやめようと思ったのです。他企業はとっくに達成していることですし、何よりも通過点だと思っているからです。でも昔からお取引している方々が、「26年前に50店舗の時に宣言して達成したという意味合いは大きい、ぜひやってほしい」と後押しされて。

そもそも多店舗化しようという考えは会長(鶴羽肇氏)が5店舗の時に北海道に100店舗つくるといい出したのがきっかけでした。5店舗の時代は、男手が私一人くらいで。旭川に4店舗、札幌に1店舗。私は札幌で男一人チラシづくりから陳列まで全部やっていました。そんな時に100店舗なんて身内でも「まさか」と思ったわけです。でもどうやら会長は本気らしいと(笑)。

それで、50店舗くらいになった時に、100店舗は見えた。次は1,000店だということで26年前に宣言を出しました。看板もちゃんとつくって。これは年間15%増やす計算で、25年で20倍の規模を考えたものです。1年遅れましたが達成することができました。

ただし、これはずっとツルハが大切にしてきていることですが、多店舗化というのは、手段であって目標ではありません。かつてはメーカーさんの力が強く、安売りをするとすぐに出荷停止になりました。またお客様の豊かで快適な生活に貢献しようと思ったら、安くて品質のよい商品を自前でつくることも考えなければなりませんでした。そうであればやはり一定の規模が必要だと考えたのです。ですので、PB(プライベートブランド)は今「エムズワン」という名称ですが、最初は医薬品からスタートさせたのです。

1,000店舗に至る中で、経営のターニングポイントとなった時期を教えてください。

ひとつはやはり東日本大震災です。約300人と連絡がつかず約100店舗が経営不能という第一報を聞いた時、これでツルハも終わりだと一瞬頭をよぎりました。ただ一方でキャッシュ(現金)があるので、いろんな保障をしてもなんとか持ちこたえようと考えることもできました。これは先々代(鶴羽勝氏)の手持ち資金の中で商売せよという教えを守っていたからでしょう。

この震災はあらためて企業が社会にどう貢献できる存在なのかということを知らしめたものになりました。

2つ目は経営の骨格というものができあがりつつあった時期、売上が100億円、店舗数で100店舗くらいの時です。これは売上が伸びているのに、締めてみたらまったく利益が出ていないという状況に陥った時期です。理由は2つあって、ひとつは安売りのしすぎ。

もうひとつは売上が伸びている時代は組織も人もイケイケドンドンで、多少コストがかかっても「売上」を上げようとするわけです。つまり経費アップです。

前者は今だからいえますが、原価を割っても安売りして、価格競争に勝ち残ろうとしたわけです。当時の私は札幌ではクレイジーな男がいるといって有名でした(笑)。本来はローコストオペレーション、つまりは仕組みで安くできないと疲弊するだけということを理解していなかったのですね。ですからまずは安売りをやめようと。適正な利益がとれる仕組みをつくることにようやく目が行きだしたわけです。

後者は、忙しくなってくると人が増えて、分業の名のもとに作業のための作業が生まれて経費がかさんできたわけです。これではとても利益が出る体質にはなりません。

ですからこのあたりから組織、オペレーションというものの原型をつくったといえます。

なるほど、組織の原型ができあがってきて、新卒も採るようになって。

新卒を採り始めたのは10店舗目くらいからです。当時はなかなか新卒もとれず、道内の学校を回って、ツルハにだれか送ってくださいと先生に頼みこんでいました。だから最初のころの新卒は落ちこぼればっかりでね。

女の子の言葉づかいもなってないし愛想も悪いやんちゃな子ばかりでした(笑)。でもその子たちはものすごく頑張ってくれましてね。根性もありました。面接では、「この荷物を持てたら合格!」なんてこともありました。私はお酒が好きなものですから、飲み行くぞ! というとワーッとみんなついてきて、その席で100店舗つくるぞ! 大きくなろう! なんていっていたわけです。今でも初期の女子社員でパート・アルバイトとして残っている人が2人くらいいます。彼女たちには本当に感謝しています。

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