バンコクのスクンビットソイ69で沖縄大衆料理店「金城」を営む大高昇平(38歳、おおたか・しょうへい)は、来年2013年を「勝負の一年」と位置づけている。沖縄出身の前任者から店を譲り受けて丸4年。最近になってようやく手応えを感じては来たものの、「まだまだ不十分。努力不足」と自戒を忘れない。いつも脳裏にあるのは今年3月に亡くなった母がいつも口にしていた言葉。「店は止めたほうがいい」。だが、その母の供養のためにも、店を閉めることだけはしたくないと、今では思っている。(敬称略)
予想もしなかった末期の乳癌
一昨年のあの時のことが忘れられない。店の階段を上り下りするたびに「腰が痛い」を表情をゆがめていた母。「疲れているんだよ。日本に帰ったら病院で見てもらって」。そう労わったつもりが、精密検査の結果は予想もしなかった末期の乳癌。ステージ4だった。
息子の店の手伝いに、はるばる故郷の千葉県から訪ねて来た母。一緒に寝泊りし、スープの火の番を買って出てくれたことも。3階の物置を住居スペースに改装してくれたのも母だった。3階に上がる階段脇には、母が残した手書きの張り紙が今でも貼ってある。「トイレはコチラ」
闘病期間は1年に及んだ。覚悟を決めていたのか、母は全ての準備を生前に済ませていた。自らは終末ケア施設(ホスピス)に入り、高齢の父に負担がかからぬよう配慮も忘れなかった。斎場の申込書には「一番安いセットで、家族葬。お坊さんも呼ばない」。母らしいと思った。
父も一人で生きていくことを受け入れ、身の回りのことを自らできるようになっていった。かつては何でも母任せだった父。遠く離れ、案じるしかない息子は、生活力のついてきた父にわずかな安堵を感じずにはいられなかった。
「お店のことを聞かせて…」
父から「母危篤」の連絡を受けたのは今年2月末。すぐに航空券を確保し駆けつけたかったが、店主催のイベントを間近に控え、カレンダーを眺める日が続いた。ゆっくりとした時間の流れが恨めしかった。
母はすっかりと痩せ細り、ベッドに横たわっていた。あまりの変わりように涙を堪えることができなかった。母は最期の力を振り絞るかのように身を起こすと、「お店のことを聞かせて…」と息子に尋ねた。
「毎日お客さんはたくさん来るけれど、浮き沈みが激しくて。将来どうなっていくのか不安」。どうしようかとも思ったが、正直に答えることにした。「やっぱり企業で働くほうがいいのかな…」とも。
母は微笑みながら、「そうねえ。そっちのほうがねえ…」と頷いて見せたが、それだけ言い残すと後はもう何も語ろうとはしなかった。再び深い眠りに就くと、それを最後に、ほとんど目を覚ますことはなくなった。
母は「安楽死」を望んでいた。癌が肝臓に転移してからというもの、水分も食べ物も喉を通らなくなっていたが、点滴の受け入れさえも拒否していた。最期はモルヒネが投与され、脈拍が徐々に降下。静かに息を引き取った。安らかな寝顔だった。