人生のほとんどを海外で過ごし、幼いころは日本語よりも英語のほうが先に口を突いて出た。「お前は日本人か?」と心ない言葉を投げかけられたこともある。でも、誰よりも日本が好きだった。誰よりも日本を愛していた。
今でもワールドカップを見るときは、必ず青のジャージのサムライイレブンを応援する。日本で大切にされる「和」の尊さも知っている。大倉尚己(おおくら・なおき)。25歳。今回は、アメリカとタイで育ち、日本で劇団に所属、現在はバンコクで日本語教師をしながら役者を続ける青年の物語。(敬称略)
「ボールをセリフだと思え!」
21歳でカナダの大学を卒業し、東京の劇団に“就職”した時のことだった。稽古の前にバレーボールのパス回しをするのが日課と知らされ、驚いたことがある。「どうしてそんなことを?」。心の中でつぶやいた。だが、返ってきたのは「ボールをセリフだと思って絶対に落とすなよ」という厳しい言葉。
「続くはずがないじゃないか」。そう思ったとおり、5回も続けば上出来だった。何度もやり直しの指示が飛んだ。ひどい時には3時間もボールを打ち続けたことがある。結局その日は、まったく稽古にならなかった。正直言って、馬鹿馬鹿しい思いがした。
小中高と育ったバンコクのインターナショナルスクールでは絶対に考えられなかった。バレーボールをするにしても、スパイク技を磨いたり、クイックの練習をするなどと、もっとやりようもあるはずだ。それをパス回しだけとは。
納得できずにいたところ、ある時、古参の劇団員から聞かされた言葉に衝撃を覚えた。「セリフをつないで、はじめて演劇は完成する。パス回しも同じ。皆で一つになって、ひとつのことを成し遂げるんだ」。思えば、インターでは「個」を大切にすることはあっても、「和」を重視することはあまりなかった。日本人の「心」を知った思いがした。
「あの時、音大に進んでいたら…」
25年前、川崎市で生まれた。弟と妹の3人兄弟。日本にいたのは自分が2歳半になるまでのわずかな期間。父の仕事でアメリカ・インディアナ州に移り住み、小学2年、8歳まで暮らした。自宅のあった州第2の都市フォートウェインは、農業が盛んな街だった。
次に住んだのは、タイの首都バンコクだった。英語教育が中心のインターナショナルスクールに編入、そこで高校卒業までを過ごした。学校では音楽が必須で、全員がバンドに加入するかコーラスを選ばなくてはならなかった。「サックスがいいんじゃないか」。父の勧めもあってサックスを選び、中学、高校と練習を積んだ。
インター修了直前、進路で悩んだ時期があった。サックスに魅せられ、音楽の道に進もうかとも考えた。だが、音大出の母はあまりいい顔をしなかった。「音楽で食べていくのは並大抵ではできない。苦労をするだけだ」。結局、音楽は“趣味”として続けることにした。「あの時、音大に進んでいたら」と今でも考えることはあるが、どうなっていたかは分からない。
カナダとベルリンで得た仲間
大学はカナダのトロント大学映画評論学部を選んだ。母がバンコクで加入していた劇団に幼い頃から“子役”として出演していたこともあって、映画には以前から興味があった。「音楽とアートを合わせたものが映画」。漠然とそう思っていた。
学生時代は世界各国のさまざまな映画に親しんだ。見たこともなかった撮影現場。地味な仕事ではあっても、これがなければ成立しない裏方の仕事。見るものすべてが新鮮だった。中でも、エンターテイメントとしては世界最先端を行く北米の映画界と接することができたのは何よりの収穫だった。
卒業制作のテーマは、「ドイツ映画批評」。そのための映画を撮るのが課題だった。仲間とベルリンに飛んだ。東西冷戦が終わって間もなく20年を迎えようとしていた。かつての東ドイツ地区も見て回った。仲間が一挙に増えた。学生時代で最も印象に残る出会いだった。その仲間たちとは今でもつながっている。