バンコクで音楽活動をはじめるHIROOとの出会い
今から3年ほど前のことだ。タイ・バンコクのカオサンロード近くにある「CAFE DEMOC」という古い「クラブ」の前で1人の日本人DJミュージシャンと出会った。“一見さん”を寄せ付けない硬派なダンスミュージックでも知られる北海道の「クラブ」業界から単身海を越えてきたという函館出身のHIROO(ひろお)。
「これからバンコクで音楽活動を始めよとうと思って・・・」
これまでの音楽活動のこと、そして、これから目指すものについてHIROOは淡々と語り始めた。口を突いて次々と出てくる老舗のミュージックレーベルや著名アーティストの数々…。だが、この時、僕は正直に言えば、ちょっと付いていくのにしんどかった。上の空というほどでなかったが、彼の静かな迫力に圧倒されたというのに近い感じか。
そうしているうちに僕は次の用事を思い出し、近くにいた仲間とともに席を立った。挨拶もそこそこに、走ってきたタクシーをつかまえようとした。その時、HIROOは持っていた袋の中から一枚のCDを差し出し僕に渡した。
「日本で適当に作ってきたので、もしかったら聴いてみて」
どことなく馴れ馴れしい話し方。でも、どこか一度は会ったことのあるような感覚。同じく当日、始めて出会ったのDJ TO-RUと話した記憶がある。
「バンコクで内容の濃い音楽イベントを創りたい」
HIROOの言いたかったことが「バンコクで内容の濃い音楽イベントを創りたい」であることは、すぐに理解することができた。しかし現実的に、彼の目指す音楽がタイで受け入れられるは懐疑的だった。ポップスミュージックや聴きざわりのよいアップテンポな曲が好まれる常夏の国タイで、繊細な北国の音楽が果たして馴染むのか。初対面の印象では「否」というよりほかはなかった。
過去6年近く、「クラブ」の映像(VJ)の仕事に携わり、タイの「クラブミュージックシーン」を数多く見てきた僕は「正直気持ちはわかるけど、現実的無理があるのでは」。内心そんな気持ちで彼の話を聞いていた。
正直、どんな思いでHIROOがタイへ飛び込んだのかは正直、分からなかった。ただ、彼はタイに来てからというもの、連日のように郊外のレーコード店やバンコク市内のスポットをひたすら練り歩いていた。音がすれば片っ端から飛び込み、自らの音楽観を訴え仲間を作った。時々、街中で会うと、「先週は10件以上のイベント会場を回った」などと笑顔で話していたのが印象的だった。彼なりに音楽スタイルを伝えようと懸命になっているように見えた。
タイでミックス・アルバムをリリース
活動を始めて数カ月。彼はタイの伝統音楽である「モーラム」と「ルクトゥン」を調合させたアルバム「LOST IN THAILAND」とオリジナルミックスCDを続けざまにオンライン上でリリース。
その展開のスピードに驚いた。そして、次に視野にあるのは、クラブでのDJ活動であろうことは容易に察しがついた。そのためのパーティーやイベントなどのリサーチを懸命にこなしていた。
レギュラーイベントのはじまり
HIROOがタイに来てからちょうど1年が経った2010年夏。彼はバンコクでも有名なクラブ街「RCA(ロイヤル・シティ・アベニュー)」にある「EZZE(イーズ)」という小さなクラブで念願の最初のレギュラーイベントのチャンスを手にした。メンバーは、同じ北海道出身のDJ mAsa(ディージェー・マサ)。
それに大阪で様々なアートワークデザインを担当してきたQotaroo(コータロー)が国境を越えて参戦。RCA地区では非常に珍しい100%日本人だけのミュージックイベントだった。イベントの名称は「GIANT SWINGIN(ジャイアント・スインギン)」。それは後の「GIANT SWING(ジャイアント・スイング)」の原型。嫌がおうにも力が入った。
周囲はヒットチャート音楽中心のクラブばかり
バンコクで最も人が集まるクラブ街のRCA。だがこの土地はやはりバンコクに他ならなかった。常時我武者羅なアップテンポのポップスミュージックを好み、どちらかと言えば独創性の高いアーティストや音楽は敬遠される場所。隣接するタイローカルの大手クラブは軒並みUSチャートを流し続け、大量の集客を集めるような地帯だ。この狭間でHIROOは独自のイベントを続けなければならなかった。そして内心誰もが環境の悪さを認めていた。
だが、HIROO本人は「とにかく続ける」ことにこだわった。たとえそこがトランス音楽中心の古びた内装で、アメリカン・ポップスの音楽を好むタイ人ばかりが集まる激戦区だったとしても。たとえ道行くタイ人が振り向かなかったとしても、メンバーらはコツコツと日本人や外国人、タイ人らに説いて回り、EZZEでの「GIANT SWINGIN」を継続した。
しかし、イベント開始から4ヶ月。店が突如の閉店。慢性的な店舗の集客不足が原因だった。HIROOのイベントは半年を持たずして舞台を失うことになった。
めざましい勢いで近代化を遂げるタイ・バンコク。工業化は街を変え、人々の暮らしや心も変えていく。華やかな生活と引き替えに、失われていく心のゆとり。こうした心の「隙間」をわずかでも埋めようと、バンコクでも「エンターテイメント」業が盛んだ。単なる「娯楽」では片づけられない現代人の知恵と遊び。明日への活力。だが、華やかな舞台の裏側は、とかく金と人気が支配しがちな世界でもある。人気の高いアーティストはますます人気に、富める者はますます富んでいく。そうした中で、自分たちの音楽など価値観を地道にと伝えようとしているクリエイターがいる。チャンスに恵まれず、資本の論理に翻弄されながらも愚直に進む強き魂をもった様々なアーティストたち。その一人に、DJミュージシャンを目指すHIROOがいた。家庭の都合から今年5月に日本に帰国するHIROO。独自の音楽を広めようと苦闘した3年間を描いた。