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憲法とタイ人法学者たちの葛藤

タイ民主化と憲法改革-立憲主義は民主主義を救ったか

世界の憲法改正

 近年日本では、憲法改正が政府および国民の重要な関心事となっている。議論の中心は、第9条の改正である。現行憲法には明記されていない自衛隊の目的や性格について、より明確化させようというものである。国民の間には慎重論もあるが、諸外国では憲法改正は決して珍しいことではない。1949年に制定されたドイツ基本法は60回以上改正されている。

 憲法改正は、法学者のみならず政治学者の間でも大きなテーマとなっている。なぜなら憲法は、政治的駆け引きの産物であると同時に、憲法が政治を規定するという側面を持つ。憲法や法律は、必ずしも公正、中立な存在というわけではなく、憲法や法律を制定したときの政治状況により内容が左右される。

また制定後、どのように解釈、運用されていくのかも時の政治状況や価値観により変化する。また憲法や法律が運用されていく中で、これらが政治を変化させていくこともある。憲法とは極めて政治的な存在であり、両者を切り離すことはできない。

タイの政治と憲法

 憲法と政治との関係が明確にみえる国の1つが、タイである。タイでは過去に19回ものクーデタが起こり、その都度、憲法が破棄され、暫定憲法制定、新たな恒久憲法制定、そして総選挙の実施というサイクルが繰り返されてきた。

現在の2017年憲法は、20本目の憲法となる。現在の憲法も含めて多くの憲法が軍事政権下で起草・制定されてきた。また1997年憲法、2007年憲法、2017年憲法により司法の権限が強化されたが、2006年以降、時として司法が政治的偏向性のある裁定を下し、タイ民主主義の後退の一因となっていると批判されてきた。

 果たしてタイ憲法は、軍部や保守派層の利益を守る道具と断じても良いのだろうか。確かに、多くの憲法は軍事暫定政権下で起草され、憲法によって強化された司法は、民意によって選ばれた与党を2度も解党している。国民やマスメディアからは、軍部に対してだけではなく憲法に対する批判も強い。しかし、憲法の起草には公法学の知識が必要となる。軍事政権の下であっても、法学について素人である軍人が自ら憲法や法律を起草することはできない。あくまで実際の起草作業は、法学者たちの手に委ねられる。

 タイにおいて公法学を専門とする法学者の数は多くない。そのため、過去の軍事政権の統治下で、憲法や法律の起草作業に参加した法学者は重複している。つまり「いつものメンバー」が軍事政権に協力している状況となっている。では、軍事政権下で憲法起草に協力するタイ人法学者たちは、「悪魔の手先」なのだろうか。マスメディアや研究者からは、彼らに対する批判の声も大きい。タイ人の法学者、政治学者の間でも、「赤色」や「黄色」といった色分けがなされる。

タイ人法学者たちの「苦悩」

 クーデタ後の憲法制定にあたっては、軍部や既得権益層が自らの利益を反映させようと様々なかたちで圧力をかけていることは想像に難くない。憲法の内容が政治状況に左右され、時の権力者の意向を反映する傾向があるのは冒頭で述べたとおりである。しかし、タイ人法学者たちはいずれも、フランス、ドイツ、米国などで博士号を取得した一流の学者たちである。彼らが、軍部の操り人形となって、保守派層の権益を守るような憲法を黙って制定したと理解するのは早計であろう。 

 タイ国民や海外メディアが目にするのは、起草委員会から途中段階で発表された草案と、最終的に可決された憲法の文言である。しかしその背後には、法学者たちの議論の衝突、葛藤や苦悩が存在する。決して軍部の言いなりになって、淡々と起草作業をこなしていったわけではない。

ここで注意しなくてはならないのは、法学者たちの「苦悩」とは、軍事政権からの圧力に対する反発という意味だけではないという事実である。

民主主義とは何か?

 タイが本格的に民主化の道を歩み始めたのは、1990年代以降のことである。欧米諸国と比べると、タイにおける民主主義の歴史は非常に浅い。しかし、民主主義の歴史が浅いタイであるからこそ、欧米で学位を取得したタイ人法学者たちの議論から先進国の人間が学ぶべき点が多い。

タイ人法学者たちは、我々日本人のように民主主義、議院内閣制や三権分立といった理念や制度を当然のものとしては受け入れない。それぞれの理念や制度の原点にまで立ち戻り、大真面目に本気で議論する。彼らが提示する疑問点は、先進国の研究者や一般国民にとっても、改めて「民主主義とは何か?」という問いについて考えさせてくれる鋭いものである。

外山文子『タイ民主化と憲法改革―立憲主義は民主主義を救ったか』
京都大学学術出版会、全392頁、2020年1月
参考URL

 2020年1月に刊行となった、拙著『タイ民主化と憲法改革―立憲主義は民主主義を救ったか』京都大学学術出版会では、非難されることが多いタイ憲法の制定過程における法学者たちの葛藤や苦悩について明らかにし、彼らの苦悩を経て誕生した憲法が、実際にどのようなかたちでタイ政治に影響を与えっていったのかについて分析を行った。

タイ民主化についてご興味がある方だけではなく、日本政治や民主主義そのものについてご関心がある方にも、ご参考になるのではないかと思います。もし宜しければご一読いただければ幸いです。

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